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- 2019.04.22 Monday
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時には〜母のない子の〜よ〜おに〜♪
いきなりカルメンマキか!
なに懐かしい歌、歌っとんねん。
いや、ちょっとこの歌についていろいろ考えててね…
誰このおじさん?
さあ、知らない人。でもいい声してるよね。
さて今回は『バベットの晩餐会』の第1章を見ていくよ。
前回を未読の方はコチラをどうぞ!
この解説記事は、あくまで原作である「小説版」の解説やで。
「わたしの知ってる映画とは違う!ムキー!」とか文句言わんといてや。
数ある小説版の中でも「イサク・ディーネセン名義の英語版」の解説だからね。
カレン(カーレ)・ブリクセン名義のデンマーク語版とも違うから注意が必要だし、日本語の翻訳版とも全然内容が違うので、そこのところは忘れないでくれ。
ちなみにここでの「日本語翻訳版」とは、筑摩書房から出てる桝田啓介氏によるものを指す。岸田今日子版など他の翻訳者のものと混乱しないようにね。
しかしこの作品は英語で読んで欲しいな。そんなに長くないし、英語も簡単なので、ぜひお薦めしたい。
作者が作品に込めた意図を100%楽しむには、やっぱり英語版じゃないといけないんだよね…
ラジャー!
では第1章『Two ladies of Berlevaag(邦題:二人姉妹)』を見てみよう。
と、その前に英語版には序文というか、この作品における最重要の一文が、いかにも「意味有り気」に提示される…
'But the true reason for Babette's presence in the two sisters' house was to be found further back in time and deeper down in the domain of human hearts'
これは第1章の最後の一文なんだけど、この短い文章の中に作者イサク・ディーネセンが「この作品で描きたかったこと」が集約されていると言っていい。
訳すと、こんな感じになるよね…
だが、ふたり姉妹の家におけるバベットの真の存在理由とは、遥か遠く遡った時間と、人の心の深層部分に見出されるものである。
本当の存在理由?何のこと言ってんだ?
単刀直入に言うと…
「二人姉妹の世界に入って来たバベットという存在は、人類史において繰り返される、ある種の《必然》である」ということなんだ…
なに言ってるか全然わからん!
つまり「新約聖書は旧約聖書によって補完される/欧州文化にはユダヤ人の存在が重要だ」ということなんだね…
ええ〜!?
なんだよそれ!?
ここで作品最大のタネ明かしをしちゃうけど…
実はバベットは「ユダヤ人」なんだ。
映画版ではカトリックのキリスト教徒として描かれているけど、原作である小説版では一言も「クリスチャン」だなんて書かれていない。
「黒い大きな祈祷書らしき本」をバベットが憑りつかれたように読んでいるところを盗み見て、恐怖心を感じた老姉妹は「あれはカトリックの祈祷書で、彼女は熱心なカトリック教徒なんだ」と自らに言い聞かせるんだね。
老姉妹は生まれてこのかた異教徒なんて見たこと無いから怖かったんだよ。なにせカトリック教徒ですら、長い人生で1人だけしか見たことがないくらいだ。
だからバベットに「それは何の祈祷書?」と聞くことが出来なかったんだよ…
確かにオペラ歌手パパンには「あなたはカトリックか?」と尋ねるシーンがあった…
だけどバベットには無かったな…
そこが「トリック」なんだよ。
フランス人のオペラ歌手パパンの登場シーンでは、彼がカトリックであることが強調される。
スカンジナビア半島のほとんど最北端の僻地に住む姉妹とその老父にとって、人生で初めて生で見たカトリック教徒だったからね。
そしてパパンが書いたバベットの紹介文にも、読者に対して「バベットはクリスチャンだ」と思い込ませてしまうトリックが隠されている。
ノルウェーの首都「クリスチャニア(現オスロ)」の存在だ。
パパンはバベットの甥がフランスとノルウェーを結ぶ「クリスチャニア航路」の客船でコックをしていると書き、わざわざ「ノルウェーの首都はクリスチャニアですよね?」と念を押す。
彼女の宗旨には一切触れずに「クリスチャニア」という言葉を連発するわけだ。
そして晩餐会の前にもバベットはクリスチャニアへ行き、戻った後もクリスチャニアに無事に食材が着くかどうか心配する。
イサク・ディーネセンは、やたらと「バベット」と「クリスチャニア」をセットにするんだよね…
これは読者の深層心理に「彼女はクリスチャン」だと植えつける作戦以外の何物でもない(笑)
なるほど…
舞台がデンマークに変わってしまった映画版では使えないトリックだ…
さすがに19世紀末のデンマークで「生まれてから一度もプロテスタント教徒以外の人間を見たこと無い」なんてありえないもんな…
映画版は舞台だけでなくバベットの設定自体も変わってしまったからね。普通のキリスト教徒になっている。
そして「コック」という言葉にも「面白いトリック」が隠されているんだけど、これは後でたっぷり解説するとしよう。
コックに?
さて第1章に入ろうか。
まずは舞台であるBerlevaagの景色が描かれる。入り組んだフィヨルドと、様々な色に彩られた小さな集落の様子だ。
日本語翻訳版では「ベアレヴォー」と現地語読みになっているけど、英語読みでは「バールヴァーグ」だね。
この地名は「Berlのvaag(バールの山)」という意味なんだけど、ここにもイサク・ディーネセンのジョークが隠されてるんだよ(笑)
へ?
「Berlevaag」という地名には、聖書に出て来るシリア・パレスチナ地方の異教の神「Baal(バアル/バール/ベル)」がかけられているんだよね。
聖書では堕落した多神教の象徴として目の敵にされ、最近ではイスラム過激派ISに目の敵にされ、歴史的に貴重な遺跡を破壊されまくった、あのバアルか!
だから小説版ではバベットの「ちょっと変わった様子」が様々な「異教」に喩えられるんだよね。
そして「Berlevaag」にある姉妹の教団や信徒にも、多神教信仰の秘密が隠されている…
なんですと!?
みんな超敬虔なプロテスタントだったじゃんか!
そうだったかな?
イサク・ディーネセンは「わかりやすいヒント」を用意してくれてたけどね…
「あること」だけには「不自然なまでに一切触れない」という、超わかりやすい手法で(笑)
「あること」?
順を追って説明していこう。
村の描写の後には姉妹が紹介される。姉の「Martine(マチーヌ)」と妹の「Philippa(フィリッパ)」の名前の由来や、美しい容姿や質素な暮らしぶりなどをね。
続いて、姉妹の父が紹介される。ここは重要な部分なんで原文を見てみよう。
Their father had been a Dean and a prophet, the founder of a pious ecclesiastic party or sect, which was known and looked up to in all the country of Norway.
訳すとこんな感じになる。
彼女たちの父は宗教指導者であり預言者だった。信心深い教団の創設者で、やや異端めいたところもあったが、その名はノルウェイ中で知らない者はなく、畏怖されるような存在だった。
なんかオイラのイメージしてた感じとちょっと違うな。
日本語の翻訳版だと、かなり意訳されているんだよね。
筑摩書房の桝田啓介版では「敬虔で強力な宗派の創始者」とされており、映画のヒットを受けてシネセゾンから出版された岸田今日子版では「敬虔な正統協会派を設立し、ノルウェー中に広まって尊敬を集めていた」となっている。
正統協会派?ノルウェー中に広まった?
岸田今日子版は、なんでこうなってもうた?
どうしても「北欧が舞台=美しい物語」という構図にしたかったのかもしれないな。
北欧好きの日本人は、北欧にドロドロしたものを認めたくないのかもしれない…
イサク・ディーネセンの原作だと、横溝正史の金田一耕助シリーズに出て来る、閉鎖的な田舎のちょっとアヤシイ宗教みたいだもんね…
しかも死んだカリスマ教祖が遺した二人の美しい姉妹やで…
市川崑が映画化したら高峰三枝子と草笛光子で決まりや。
いや、富司純子と松坂慶子も捨てがたい。
何の話してんだよ!
しかも三条美紀と萬田久子が可哀想じゃんか!
ごめんごめん。最近『犬神家の一族』の記事を書いたもんで(笑)
さて、さっき挙げたの原作の英文を見るとわかるように「sect(セクト)」という単語が使われている。
単語自体は「宗派・分派」という意味なんだけど、こういう風に使われる場合は「異端」という意味合いが強くなるんだ。
日本語でも「セクト」はあまりいい意味では使われないよね。
まあ、そもそも教祖が「預言者/予言者」やしな…
じゅうぶんな異端要素やろ。
日本で例えると神道系の新興団体みたいな感じかな。
だいたいそういうところには、かつてカリスマ的な教祖がいて、御神託を信者や世間に与えていた。
しつこいようやけど、教祖の娘が美人なのも「ありがち」や。
『獄門島』の浅野ゆう子もそうやったし、某日活映画の五月みどりもそうやった。
実際の宗教団体でも教祖の娘が美人っちゅうところは多いんとちゃうか?
カリスマ教祖の嫁さんは、だいたい美人やさかいな…
まあこれも「ありがち」なハナシや。
そして、美人な娘の「母」、つまり「カリスマの妻」が、後々「タブーな存在」になることも「ありがち」だよね…
へ?
まあそれはひとまず置いといて、引き続き第1章を見ていこう…
次は彼らの宗教観が説明される。
姉妹の父が創設した教団では「現世での喜び」をすべて「幻想」と見なしていた。
信徒に対し「日常生活の中で喜びを一切感じてはいけない」と教えていたんだね。
そして地上に理想世界「新たなるエルサレム」の到来を切望していたんだよ。
ほとんどカルトじゃんか…
これが日本語翻訳版では、かなり「マイルド」に訳されているんだよね。
原文では「the plesures in this wprld(この世の喜び)」を「幻想と見なす」と書かれているんだけど、日本語翻訳では「快楽を幻想とし、悪とみなす」とされている。
日本語版での教条は、割と「普通のこと」になってしまっているんだ。イサク・ディーネセンによる英語版では、かなり過激な思想なのにね。
そして映画版では彼らの宗教的特異性は完全に消され、とても敬虔なキリスト教徒として描かれている…
なるほど、そうゆうことだったのか…
そして次の「信徒の態度」の説明は、英語の原文と日本語翻訳版の内容が「180度違ったもの」になってしまっているんだ。
まず日本語版では、こう書かれている…
「彼らの話しぶりは是は是、非は非とする態度でつらぬかれていて…」
誰に対してもハッキリとモノを言うってことだな。
疑問があったら、強い意志を持って意見するって感じだ。
でもイサク・ディーネセンの英語版では、そうじゃないんだ…
「教えに対して一切の疑問は抱かず、教父に対して疑うようなことは絶対に口にしない」ってニュアンスで書かれているんだよね…
ええ!?全然違うじゃんか!
だってイサク・ディーネセンは、こう書いているんだよ…
their communication was yea yea and nay nay,
コミュニケーションが「イエィ、イエィ」と「ナイ、ナイ」?
浮かれたウェイ系のパリピか?
「yea yea and nay nay」は「イエスとノーしか口にしない」ってことなんだ。
『マタイによる福音書』第5章37節からの引用だね。
Matthew 5:37 King James Version (KJV)
But let your communication be, Yea, yea; Nay, nay: for whatsoever is more than these cometh of evil.
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
ここでは「信仰生活において《はい》と《いいえ》しか言ってはいけない」と書かれているんだね。
それ以上余計なことを口にするのは「悪の仕業」だというんだ。
まさに日本語版と正反対!
そして「イエィイエィ!ナイナイ!」はパリピの言葉じゃなくて、聖書の言葉だったのか!
ちなみに『バベットの晩餐会』のストーリーは「マタイによる福音書:第5章」がベースになっているんだ。
小説を読んだ後にマタイの第5章を読むと、思わず顔がニヤけちゃうと思うよ…
「山の上にある町」とは「エルサレム」のことなんだけど、『バベットの晩餐会』では「Berlevaag(バールの山)」に置き換えられている。
そして「料理と塩」の喩えや、「仲の悪い兄弟」の喩えや、「パリサイ人の義」についても作品の中に重要なモチーフとして登場する。
さらには「仲間に対して攻撃する者は地獄の火に投げ込まれる」とか、「最後のお金を使い果たすまでは、そこから出られない」とか、「あなたを迫害する者のために祈れ」とか…
あまりにも重要なので、全文掲載しておくね。
5:1イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。5:2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。5:5柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。5:6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。5:7あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。5:8心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。5:9平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。5:10義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。5:11わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。5:12喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。5:13あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。5:14あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。5:15また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。5:16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。5:17わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。5:18よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。5:19それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。5:20わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。5:21昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:22しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。5:23だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、5:24その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。5:25あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。5:26よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。5:27『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。5:29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。5:30もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。5:31また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。5:32しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。5:33また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:34しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。5:35また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。5:36また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。5:37あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。5:38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。5:40あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。5:41もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。5:42求める者には与え、借りようとする者を断るな。5:43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。5:45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。5:46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。5:47兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。5:48それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
「パリサイ人」が「パリの人々」か(笑)
「不品行以外の理由で自分の妻を出す者は云々」っちゅうのは姉妹のオトンのことやろ…
だから姉妹のオカンは教団の中で「アンタッチャブル」な存在なんや…
ふふふ。面白いよねイサク・ディーネセンは。
これまで多くの読者を手玉に取って来たんだろうけど、僕の目は欺けないぞ(笑)
ちなみにこのマタイ第5章の中で、『バベットの晩餐会』的に最も重要なのが「第17節」だ。
Matthew 5:17
Think not that I am come to destroy the law, or the prophets: I am not come to destroy, but to fulfil.
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
小説の序文「姉妹の家におけるバベットの真の存在理由」だな…
ユダヤ人のバベットは旧約聖書の預言を成就させるため、つまり新約聖書を補完するために来たんだ…
そうゆうこと。
「yea yea nay nay」で聖書の引用に気付けば、自ずと物語の意味もわかるようになっているんだ。
さて「信徒の態度」の次は「姉妹の父が晩婚だったこと」にサラッと触れられ、「現在の信徒の様子」が紹介される。
教父の死後は新しい信者が増えることは無く、教団はどんどん高齢化していき縮小の一途だ。
偉大な教父の不在は信徒に気の緩みを生じさせ、争いごとが絶えないようになっていた。
でも教団本部ともいえる「姉妹の黄色い家」に集まると、なぜだか昔に帰ったような気分になれたんだね。
年老いた信者たちは、師の心が黄色い家と姉妹の中に宿っているように感じたんだ。
偉大な教父同様に老姉妹を慕っていたんだね。彼女たちが赤ん坊の頃から知っているわけだから、自分たちの娘みたいなもんだよね。
そして「黄色い家」でバベットというフランス人家政婦が家事全般を受け持っていることが説明され、第1章は終わる…
ちょっと待って!姉妹のママのことはスルーか!
みんな今は亡き教父を慕い、その娘である姉妹を慕うんなら、普通はママさんのことも慕うだろ!
せやで!
教祖の嫁っちゅうたら、信徒全員のオカンみたいなもんや!
なんでビッグママの存在をここまで全員でシカトするんや!?
極めて不自然だよね。
物語のベースとなったマタイ第5章には「不品行以外の理由で妻を出す」という記述があった。
ということは、姉妹の母も「不品行以外の理由」で教団を去ったと思われる。
そしてそれは教団最大のタブーとなった。だから誰も「姉妹の母」のことを口にしないんだ…
「不品行以外の理由」って何!?
姉妹はそれを知ってるの?
姉妹は、その理由を知らないと思う…
自分たちの母の存在が信徒の間でタブーになってる理由をね…
いったいどうゆうことなんだ!?
そう言うアンタは知ってるのかよ!?
姉妹の母に関する秘密の鍵は「第2章」にあるんだ…
「第2章:MARTINE'S LOVER(マチーヌの求婚者)」をしっかり読めば、その謎が解ける仕組みになっているんだね…
確か第2章って、若き日のレーヴェンイェルム将軍の話だったよな…
その通り。彼の存在がキーマンなんだ。
詳しくは次回たっぷり解説するよ。どうぞお楽しみに…
いったいどうゆうことなんだ…?
ちょー気になるじゃんか…
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